小手指が原は上古から江戸時代までしばしば大戦場となりました。古くは日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷を打つ為にこの地で戦っており(写真1)、中世においては、新田義貞が鎌倉幕府軍と戦い、その三男義宗もまたこの地で足利尊氏軍と戦いました(写真2)。
ここで、なぜこの小手指の地で大合戦がしばしば行われたかという疑問が生じますが、大軍同士の戦い、特に騎馬を使う戦いとなると森林の中での戦闘は不可能で河原や草原が必要となるのですが、この地にはその平原が広がっていた為と思われます。江戸時代以前の関東平野一帯は雑木林が生い茂っていましたが、入間川と久米川(現在の柳瀬川)に挟まれた小手指が原は、恐らくは、この両河川がその支流とともにしばしば反乱を起こした為に、雑木林の少ない平原が広がっていたと想像されます。大軍勢が集結するまでには日数がかかり、両軍は野営して態勢が整うまで待つ必要がありますが、この両河川の河原はそういう場所としても適していたと考えられます。

薬王寺

写真1 日本武尊は蝦夷と戦うときに神明社(所沢市宮本町)の地で戦勝祈願を行ったと言い伝えられています。

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写真2 薬王寺本堂(所沢市有楽町) 足利尊氏との戦いに破れた新田義宗は再起をかけこの地に潜んでいました。義宗が刻んだ薬師如来が御本尊となっています。

けやき内科
西脇正人